久保記念館

久保記念館は昭和2年(1927年)5月8日の九州大学医学部耳鼻咽喉科学教室の第二十回創立記念日に同門会の四三会員一同から耳鼻咽喉科学教室初代教授 久保猪之吉先生に寄贈され、さらに九州大学に献呈されたものである。その献呈式にあたり、久保猪之吉先生は

「今日堅牢なる耐震耐火的建築物を完成し久保記念館の名を持って予に贈らる。大に予の意を得たるを以て喜んでこれを受納し直ちに本学に寄附の手続を了し総長より感謝の辞を得たり。今より教室多年の努力によりて蒐集したる記録、標本、図書を安全に保存し得べし。 是等の中には日本に於けるレコードは勿論世界に於けるレコードをも有するを以て之を保存し往くことは吾等及後継者の責任なり。願わくは門弟諸子よ記念館の基礎を益々固くし深くし将来之を吾耳鼻科のMeccaたらしめよ。」

と述べた。

久保記念館以来、貴重な医学標本、入院記録、外来記録、直達鏡検査簿、手術簿、教室史を始めとして、寄贈を受けた物品や図書などを収蔵し保存に務めてきた。現在も収蔵品の保存状況は良好である。
しかしながら、50年余の歳月を経て記念館の内外装の老朽化が進み、抜本的な改修を行わなければ収蔵品の管理が危惧される状況となった。このため、四三会員からの浄財を募ることにより、平成11年5月から第一次久保記念館改修事業によって外装を改修し、平成14年5月から第二次久保記念館改修事業によって内装を改修し、平成15年3月ようやく改修を終了させることができた。

久保記念館展示品

久保猪之吉先生胸像

久保先生門弟豊島 豊博士の作、第6回日本医家美術展
に入選したものを昭和35年4月寄贈された。

片倉元周氏肖像画

片倉元周(鶴陵)(1751~1822)は小田原の医師賀川氏に従って産科を修めたが、他の諸病の治療にもすぐれた手腕を発揮した。その著書、静儉堂治験には三味線の糸を筆管に通して、こしらえたループで鼻茸摘出に成功したことが記されている。(一要斉豊国画、太田錦城題)

片倉元周氏使用医療器械サック

氏が常用した器械で、三稜針、鯨骨サグリ、曲頭管(鼻から薬を飲ませるもの)等がある。 これを入れるサックは表は印度更紗、裏は和蘭更紗を使用してあり、折畳んで懐中に入れることが出来る様になっている。当時極めて贅沢なものであったと思われる。又別に蔵書印、その他の印、薬の広告に用いた版木もある。元周氏の子孫岡村悦子氏から久保教授に贈られたもの。

賀古鶴所氏の反射鏡及び耳科器械

氏は安政2年(1885)浜松に生れ、昭和6年(1931)東京で逝去された。軍医として軍医監となる。明治22年(1889)渡欧中ベルリンに於いて耳鼻咽喉科を学び、帰朝後陸軍軍医学校に於いて、耳鼻咽喉科を講義した。この器械は、氏遺愛の品であって、養嗣子、医学博士賀古弓弦氏から故人の写真と共に寄贈されたものである。その内容は反射鏡1、ピンセット2、鼓膜切開刀1、鑿3、顔面神経保護器1、耳洗用水銃1、耳管カテーテル1、耳用膝状巻綿子1、喉頭鏡1、後鼻鏡1、喉頭巻綿子1等であり、ベルリンのウインドラー製のものが多い。

仙崖筆「耳鳴」の額

「徳を行ふは楢耳之鳴るがごとし、独自知って人を知らしめずと註したのは面白い。仙崖(天保8年歿)は博多聖福寺の禅僧、書画をよくす。彼自身耳鳴りありしものか。此額は耳鼻科に関係あるのみならず、筆力雄勁の逸品なり。」と久保先生は評して居られる。
曾田共助博士寄贈。

上顎洞性後鼻孔ポリープ

世界最初の例(1907)

日本で最初に摘出された気管支遺物

4歳男子、太鼓鋲(1907)

杉田玄白著 解体新書